私の戦後70年が終わった
2015年 06月 26日
改葬のお知らせ
2015年5月16日(土) 午後1時30分 御会食 2時から
ご無沙汰しております
折しも戦後70年を迎える年に、 私の戦後も閉じることが出来ること
ほんとうに有難うございます。まだ動ける内にと、私の勝手な願いを
助けて頂いた○美さん、★寺さん、また改葬の日にはお忙しい中大勢の
方に来て頂けることに、心から感謝致しております。
父は新天地での活躍を夢見て満鉄(国策会社)の大学を優秀な成績で卒業し、
山脇女学院を卒業したばかりの母を呼び寄せました。満鉄社員になり、終戦時は
撫順炭鉱の所長でした。
社宅前 運転手さん・ねいや・ボーイさん2人 まだ私と妹は生まれていない
昭和17年だろうか 私と妹が写っている
敗戦後ロシア人に日本人の技術を教えるために社宅はソ連の将校の宿舎でもありました。
ロシア軍の下級兵士は靴下も履いてないと、遊んでもらった兄たちは驚いていました。
日本の関東軍等との交錯の内に満鉄病院長と共に行方不明になり、政府からは勲章と骨箱
が来ましたが、母は見向きもしない様子でした。
民間軍人でもあった父は、母が”この戦争は負ける”と言うと、”お前は国賊だ”と憤怒し
ロシア将校にラブレターをもらった時は”売国奴”と怒ったと母は苦笑していました。
父なき後6人の子を連れて郷里に引き揚げたの母の苦労は如何ばかりであったか、
子供達も何不自由ない暮らしからの変動に必死でした。
長兄は予科練を経て東京におりましたが、境遇の変化に耐えられなかったのでしょう
亡くなりました。
一本しかないぼろ傘で小学校まで送ってから自分の学校へ行った兄の事ははっきり
覚えています。学校に収めるお金が無く、忘れたと嘘の連続、事情を知る先生は
”お前は忘れ物の名人だな”と、痩せていた私のためにリンゴやブドウを持って来てくれた
こともありました。
海と空の広がるここで、せめて心安らかにいて欲しく、又私もたまに遊びに来られる近さが
嬉しく思っています。
お洒落大好きな母でした、どうぞ平服でいらして下さい。
2015・04.05 K○○○○
前年亡くなった若い友人のご命日に浦安墓地公園にお参りしたご縁で
改葬許可も頂きほぼ半年の間考えてきたことがすべてこの日に終わった
読経の代わりにライオンデイでご縁のできたF先生に
バイオリンを弾いて頂くことも快諾を頂いた
兄に”海ゆかば”
母に昔良く歌っていた”ジョスランの子守歌”
故郷に帰ることが出来なかった父に”故郷を離るる歌”
おまけにバッハ”無伴奏”
小さい子供達も多くあまり厳粛とはいかなかったが 満足した
不思議なことにこの日から気持ちが凄く落ち着いたと感じる
やはり気になっていたのだろうか
Seeing you soon!
子供たちは縁起が悪いんじゃない?と言うが私の気持ちにはぴったりだ
日曜にはmyジャガーで行ける近さが嬉しい
早朝に行けたらもっと良いのだけれど・・・
by aamui
| 2015-06-26 22:54
| 子孫達へ