戦後63年 父はやっと死んだ
2008年 11月 16日
先日のテレビで 戦後63年経った
東京大爆撃での民間の人たちの体験が語られていた
父は満鉄無順炭鉱の所長であり 民間軍人でもあった
敗戦後進駐してきたロシア軍に技術指導をしていた
満鉄の社宅だった我が家は将校たちの宿舎となっていた
その当時小中学生だった兄たちは
玄関に寝泊りしていた部下によく遊んでもらったそうだ
あの厳寒の中靴下も履いていなかったと
引き揚げの後驚いて話してくれた
将校たちと出掛けた父と撫順病院の院長は 折悪しく進駐してきた
関東軍に帰路を阻まれ そのまま帰らぬ人となったのだ
子供たちを連れて引き上げた母の元に
何年かして時の政府から 父の遺骨と証するものが送られてきた
小学生だった私はその箱のカランと乾いた音を覚えている
おそらく母も父の死は納得していなかっただろう
私もずっと父は生きていると思ってきた
母が亡くなった 父は生きていれば108歳の筈だ 一緒に死んでもらおう
やっと母も落ち着いたことだろう
社宅の庭 二人の間には
2人のロシア将校が写っていたが 引き揚げの時切り取ったそうだ
頭が・・・・・
やはり憂鬱な顔だ
東京大爆撃での民間の人たちの体験が語られていた
父は満鉄無順炭鉱の所長であり 民間軍人でもあった
敗戦後進駐してきたロシア軍に技術指導をしていた
満鉄の社宅だった我が家は将校たちの宿舎となっていた
その当時小中学生だった兄たちは
玄関に寝泊りしていた部下によく遊んでもらったそうだ
あの厳寒の中靴下も履いていなかったと
引き揚げの後驚いて話してくれた
将校たちと出掛けた父と撫順病院の院長は 折悪しく進駐してきた
関東軍に帰路を阻まれ そのまま帰らぬ人となったのだ
子供たちを連れて引き上げた母の元に
何年かして時の政府から 父の遺骨と証するものが送られてきた
小学生だった私はその箱のカランと乾いた音を覚えている
おそらく母も父の死は納得していなかっただろう
私もずっと父は生きていると思ってきた
母が亡くなった 父は生きていれば108歳の筈だ 一緒に死んでもらおう
やっと母も落ち着いたことだろう
社宅の庭 二人の間には
2人のロシア将校が写っていたが 引き揚げの時切り取ったそうだ
頭が・・・・・
やはり憂鬱な顔だ
by aamui
| 2008-11-16 08:36
| 手紙大好き